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KENSYO vol.58
中村 鴈治郎
GANJIRO NAKAMURA

鴈治郎改め
坂田 藤十郎
襲名を語る

中村 鴈治郎(なかむら がんじろう)
成駒屋。1931年12月31日、京都市に生まれる。’41年2代目中村扇雀を襲名し初舞台。’90年3代目中村鴈治郎を襲名。重要無形文化財保持者(人間国宝)・日本芸術院会員。’05年12月京都・南座「吉例顔見世興行」にて、231年ぶりに坂田藤十郎の名を襲名する。

 「坂田藤十郎という名前が231年ぶりに世の中に出る。身に余る光栄とともに、初代藤十郎との深い因縁があるように感じます」と、京都・南座の「吉例顔見世興行・東西合同大歌舞伎」での襲名披露が近づき中村鴈治郎さんは感慨深げだ。
 現在に続く上方歌舞伎の芸「上方和事」を確立した初代藤十郎の名前は、当然、小さなころから知っていたが、意識をしたのは、やはり、前名の扇雀だった1953年に宇野信夫脚色、演出で歌舞化された「曽根崎心中」でお初に抜てきされた時だったそうだ。近松門左衛門が人形浄瑠璃文楽に書き下ろし、1703年に初演された作品だが、それ以前から歌舞伎も手がけていた近松の作品に多く出て、藤十郎は名声を得ていた。
「藤十郎がスターになった時期に『曽根崎心中』は書かれたもの。それを演じさせて頂き、その時から藤十郎とのつながりがあるんだなと、ひしひしと感じていました」と言う。
 1981年には近松作品を上演する「近松座」を結成。「近松を通じて藤十郎と近くなりました。藤十郎との縁は私の人生とつながっている」とも。「野球少年が長島茂雄選手にあこがれるように、あこがれていた」坂田藤十郎に鴈治郎さんはまもなく“生まれ変わる”。

 初代藤十郎は、青年期は技芸の修業に明け暮れ、1678年、大阪新町の名妓夕霧が病死した事実をふまえた「夕霧名残の正月」で藤屋伊左衛門を演じて評判を得た。零落した伊左衛門を、紙衣の衣裳に編み笠という出で立ちで、落ちぶれた境遇を表す芸“やつし”の妙技をみせた。

 その「夕霧名残の正月」を襲名披露最初の演目に選んだ。昼の部、今井豊茂脚本の「夕霧名残の正月・由縁の月」の藤屋伊左衛門で登場する。

 「ストーリーも何も残ってないが、紙衣を着て、まずお客様に平成の藤十郎を、体からにじみ出るメッセージを、みて頂きたい」との思いを込めた。

 「和事は、役も大切だけれど、自分が醸し出す風情の中に役が入ってこないとだめ。特に藤十郎が得意とした役の風情には無限の広がりがあり、そこが難しい」と、共演者も上方歌舞伎ゆかりの俳優に頼んだ。相手役の扇屋夕霧を人間国宝の中村雀右衛門、扇屋主人を片岡我當、女房を片岡秀太郎らで、襲名の口上も兼ねるという。

 そして自身の代表作「曽根崎心中」も上演。お初と心中する徳兵衛役に長男の中村翫雀、お初に横恋慕する敵役の油屋九平次に若手の中村亀鶴を抜てきした。

 「顔見世で若手を抜てきすることはあまりないが、これからの上方歌舞伎を継いでいく次の世代を作っていくのも私の役目。こういう形でやることも大事だと思いました」

 歌舞伎の襲名は大抵、子供、もしくは養子や弟子が継ぐのが常だが、藤十郎と鴈治郎の家に姻戚関係はない。そこにあるのは「上方和事」という芸の継承者ということと、東京一極集中で衰退した上方歌舞伎復興を願う気持ち。それが今回の襲名につながった。

 「江戸歌舞伎と上方歌舞伎、両方の芸が隆盛になってこその歌舞伎。扇雀から鴈治郎を襲名する時は、家の名前を継ぐという気持ちがあったけれど、今回は、精神だけでなく本当に生まれ変わるような気がする。坂田藤十郎の名前のまねき看板が南座に上がった時にどういう気持ちになるのか、もっと深くなるのかな」と、屋号も「山城屋」に改める。

 「歌舞伎役者として長い間、修業し、生きてきたかいがあった。今までのようにはなかなか出来ないだろうけれど自分の生涯を悔いのないようにやらないといけないなあと思います」。「口上」は夜の部。大顔合わせで八重垣姫を演じる「本朝廿四孝」で上方らしい趣向を用意している。

 「一生青春」を自身のテーマに掲げ、いつも前向きな鴈治郎さんらしい新たな第一歩になりそうだ。

インタビュー・文/ひらの りょうこ

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