KENSYO vol.91 人形遣い吉田 簑助 Minosuke Yoshida
千秋楽ごとに、この役を遣えて幸せだったと感謝しています。
人形遣いであることが運命づけられた人である。十一月の国立文楽劇場公演「伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)」で遣ったお米。かつて全盛を誇った傾城の色香をにじませながらも、夫・志津馬の仇討をひたすら願うけなげな妻の心情が、そのか細い身の内からこぼれるようであった。 簑助の人形を見ると、誰もが文楽に魅了される。インタビュー取材の最中、お米の人形を手にとってもらった。その瞬間、人形に命が宿ったのが見えた。人形遣いと人形だけに交わされるアイコンタクト。そこに一体何が生まれるのか。「人形はものすごくかわいい」と、お米の顔を見つめる簑助のまなざしは、深い愛情と慈しみに満ちている。人形遣いだった父、二世桐竹紋太郎について子供のころから楽屋や劇場に出入りし、六歳にしてこの道に入った。以来、七十年以上に渡って人形遣い一筋に生きてきた。 簑助が遣う女方の人形の艶やかさ、華やかさ、匂うような色香、そして切なさや哀しみを秘めた美しさは比類がない。そんな簑助がもっとも影響を受けたのは、師匠の二世桐竹紋十郎であった。 「芸に対する姿勢は、師匠から受け継ぎました。師匠はどんな条件の悪い舞台でも、いつも全力で人形を遣っておられました」と振り返る。 文楽は戦後、会社側(松竹)の因会と、組合側の三和会に真っ二つに分かれた不幸な時代を経験する。簑助は師匠の紋十郎や兄弟子の二世桐竹勘十郎らとともに三和会に所属し、自分たちで公演会場を交渉し、切符を売り、夜行列車に乗り継いで移動するなど厳しい時代を乗り越えてきた。「三和会時代、学校の講堂で一日に五回、『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』を上演したことがありました。師匠は政岡を遣われましたが、ざわざわして、ろくに見てくれない学生相手に師匠は五回とも、どの瞬間も手を抜かれなかった。私は師匠の左を遣いながら、舞台人としてあるべき姿を教えられたような気がします」 当たり役は数多い。「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」のおかる、「寺子屋(てらこや)」の千代、「生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)」の朝顔、「酒屋」のお園、「曽根崎心中(そねざきしんじゅう)」のお初…並べていくと、そのまま文楽の立女方の役々と重なる。 簑助といえば、女方。しかし当人は、人形遣いは立役、女方問わず、どんな役でも出来なければならないという信念を持っている。 近年、忘れられない役も、意外なことに立役であった。平成五年十一月、国立文楽劇場で上演された「太平記忠臣講釈・喜内住家(たいへいきちゅうしんこうしゃく きないすみか)」の矢間重太郎。 「辛抱立役と言いますか、武士の矜持、子や妻への情愛、それを振り切るように主君の仇討に出立する段切れの『しおれ、勇んで出て行く』という裏腹の感情を表現するのは人形遣いの醍醐味でした」と感慨深い表情。 簑助の人生の最大の試練は、平成十年十一月、国立文楽劇場で公演中、脳出血で倒れたことであろう。「もう一度人形遣いに戻る」という一念で、苦しいリハビリを乗り越え、翌年七月、舞台に戻ってきた。簑助の芸に一段と深みと輝きが増した。現在も、体力維持や足の筋力を鍛えるため、公演のない時は近所のジムに通って、毎日パーソナルトレーニングをかかさないという。 「毎公演、千秋楽ごとに、この役を遣えて幸せだったと感謝しています」 昨年、文楽は大阪市の補助金削減問題で大きな試練にさらされた。これまでさまざまな公演や媒体を通して文楽の普及に努め、芸の向上に取り組んできた簑助だが、「やはり文楽は知名度不足と感じることが多々ある」という。 「お客さまに見ていただき、劇場に足を運んでいただくためには、スターと呼べる存在が必要。次代のスターを育て上げること。それが私のこれからの務めだと思っています」今年、弟子の吉田一輔の高校生の長男が簑助のもとに入門した。簑助とは六十歳以上の年の差があり、親子揃って弟子というのも珍しい。「若い弟子を育てる責任を感じています」と表情を引き締めた。 平成二十六年一月三日に開幕する「初春文楽公演」(国立文楽劇場)では、「傾城恋飛脚(けいせいこいびきゃく)」の遊女梅川を遣う。 「人形を遣うことは私にとって人生のすべてです」と語る簑助。文楽の神髄を担って、舞台に立つ。 インタビュー・文/亀岡 典子 撮影/八木 洋一
●ページTOPへ ●HOME