撥が宙に舞う。観客が息を詰めて見守るなか、撥を受け止め三味線を奏でる─。
一月、大阪・国立文楽劇場で上演された「関取千両幟」。 人間国宝、八代豊竹嶋太夫の引退披露の大舞台で、寛太郎は、珍しい三味線の曲弾きを勤めた。 曲弾きとは、派手でスリリングな技巧を用いて三味線を演奏する、いわば“ケレン”。 観客はハラハラしながら三味線の“芸”を見つめる。 見事、技を決める寛太郎に、客席から大きな拍手が贈られた。
しかし、初日前に行われる舞台稽古で、寛太郎は失敗続きだった。
「楽屋の稽古では出来ていたのに、舞台稽古になると撥を落としてしまったり、うまく出来なくて…。自分でも辛かったです」
しかし重圧をはねのけ、本番は見事成功。一月の大阪公演、二月の東京公演と二カ月間、大きなミスはなかった。
実は、この曲弾きには、寛太郎の師匠であり、祖父で人間国宝、七代鶴澤寛治の特別な思いがあった。
寛治の家では、曲弾きは竹澤家(寛治の前名は八代竹澤團六)が始めたものとして大切に受け継がれている。その芸をなんとか、孫に伝えたい。 師・寛治の気持ちを寛太郎はひしひしと感じていた。
「祖父の思いがわかるだけに、プレッシャーは凄かったですね。 でも、この経験を通して、三味線を弾くのは技術だけじゃない。 自分の気持ちや環境をどう整えるかも大事だということを学びました」
しかし、どんなに成功しても師匠は孫をほめなかった。それが文楽という芸の世界の厳しさである。
祖父の三味線を聴いて育った。流麗にして繊細。 透明感があるのに迫力ある音色。 祖父の音だけはどんな時でも聴き分けられた。
「いつか、自分もおじいちゃんのような三味線が弾きたい」。 小学6年生で入門。 寛治はただ、「大変な世界やぞ」とだけ、釘をさしたという。
当代寛治の父、六代寛治もまた文楽三味線の人間国宝。 曽祖父、祖父と続く三味線の家に生まれた寛太郎はサラブレッドといえる。
しかし寛治の稽古は厳しかった。十代の頃、寛太郎が弾く一音に、「違う」「違う」と繰り返される。
何が違うかは教えてくれない。「ひとりでやってろ」と言い捨て、部屋を出て行かれたこともあった。
「出来ないことが悔しくて、泣きながら稽古しました。 あんまり泣くので、祖母が『やめるんやないか』と心配したくらいです」
「違う」が続いた後、ついに師匠は、「そう」と一言。 「でも、何がよかったのかわからないんです」。寛太郎は考え抜く。「多分、考えること自体が大事なんでしょうね」
そんな厳しい師匠だが、時々、やさしい祖父と孫に帰る時間がある。 寛治が見つけた美味しい店を寛太郎がインターネットで検索。 二人で食べに行っては、芸談や昔の文楽の話を聞く。
「それが僕にとって最高の幸せです」
近年、大きな役を勤める機会が増えてきた。 忘れられないのは、「阿古屋琴責」の三曲であり、昨年、若手素浄瑠璃の会で竹本小住太夫とともに挑んだ「寺子屋」である。 確かな技術とスケールを感じさせる演奏、そして、誠心誠意、曲に向かう姿勢は次代を担う逸材の証であろう。
そんな寛太郎が今夏、初めて自身の会を開く。八月十二日、東京都渋谷区の文化総合センター大和田・伝承ホールで行われる「鶴澤寛太郎の会」。 時代物の大曲「絵本太功記・尼ヶ崎の段」に、小住太夫とともに体当たりで挑む。
「師匠の音に憧れて入門したのに、全然近づけている実感がないあせりもあります。 大曲に挑んで、みっちり勉強したいと思ったんです」
チラシのデザインや会場の手配、宣伝まですべてに関わった。「いまや、芸人は芸だけやっていればいいという時代ではなくなってきている。 公演の運営や宣伝方法など、自分たちでも考えないといけない時期に来ていると思うんです」ときっぱり語る。
目標は「祖父です」と明確。 その目標に向かって、強い意志で進み続ける新時代のサラブレッド。
最後に、「子供ができたら、この道に入れたいですか」と聞いてみた。
「すごい変わり者で、妙なこだわりがあって、信念を持って自分の美学を追求するような子供だったら」
どうやら、自分のことらしい。
インタビュー・文/亀岡 典子 撮影/八木 洋一
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