歌舞伎の華は女方。華やかに、可憐に、あでやかに。生身の女性よりずっと女らしく、舞台に大輪の花を咲かせる。
そんな女方の最高峰で人間国宝だった亡父、四世中村雀右衛門の名跡を、五代目として襲名して八カ月。舞台姿が、ますます先代に似てきたと評判だ。
「父に風情が似ていると言っていただけることが一番うれしいですね」と、女方らしい、やさしげな顔をほころばせた。「芸はなぞることから始まる、と申しますし、父もよく、『なぞって、なぞって、ようやく自分のものになる』と言っておりました」
三月、東京・歌舞伎座でスタートした襲名披露公演。圧倒的な芸格、驚異的な若さを保ち、最晩年まで華やかなお姫さまや傾城が似合った先代。その当り役である『金閣寺』の雪姫、『鎌倉三代記』の時姫に挑んだ。
雪姫も時姫も、・三姫・と呼ばれるお姫さまの大役。深窓の令嬢ながら、身の内にほとばしるような情熱と矜持を併せ持つ役どころを、当代はあくまでも美しく、義太夫狂言らしい深さで描いてみせた。
以降も、六月の博多座、七月の大阪松竹座、九月の公文協の全国巡業と、一連の襲名公演で、『十種香(じゅしゅこう)』の八重垣姫、『鳥辺山心中(とりべやましんじゅう)』のお染、『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)・七段目』のおかるなど次々と女方の大役を勤め、見事に、『雀右衛門』の名跡を受け継いだといえる。
「父は生涯、美しくいることを大切にし、そういう役どころを演じ続けました。でも、私は、幼いころから松緑のおじ(二代目尾上松緑)がかわいがってくださったこともあり、『魚屋宗五郎』の女房おはまのような江戸の生世話物なども勤めさせていただいています。父の当り役をしっかり受け継ぎつつ、そこにどうにかして自分自身のものを積み上げ、『先代もいいけど、五代目もいいわね』と言っていただけるよう精進していきたいと思っております。」
そもそも、「雀右衛門」の名前は上方発祥。三代目は、上方歌舞伎のスーパースター、初代中村鴈治郎の相手役を勤めた女方であり、四代目も戦後の一時期、関西歌舞伎に在籍、多くの女方の大役を演じた。
「実は私も、大阪生まれなんですよ」と、いたずらっぽく笑う。「父がこちらにいたとき、母が大阪に来ていて産気づき、私を産んだのです。ですから、大阪生まれ」
物心ついたとき
から、先代の舞台を見て育った。女方になることはごく自然のなりゆきだった。
父で、師でもある先代とは、楽屋で鏡台を並べることが多かった。そんなとき、よく言われたのが、「女方はきれいでなくちゃいけないよ」だった。「若いころはまだ芸が未熟なせいもあり、父は『おまえ、芸がないんだから、きれいでなくちゃ、しょうがないよ。もっともっと、白く塗りなさい』と。生涯、美しさを追求した父を誇りに思いますし、僕も出来る限り近づきたいですね」
いよいよ、十一月三十日から、今年最後の襲名披露が京都の顔見世で行われる。本来は南座のはずが、今年ばかりは、南座が休館中のため、同じ京都の先斗町歌舞練場に場所を移して開かれることになった。
「先斗町で襲名披露させていただくなんて機会はめったにありませんので、うれしく思っております。これもご縁ですね」と言い、「先日、劇場にうかがいましたが、舞台とお客様の距離がとても近くて、わくわくするような、うれしい感じがしております」。
襲名披露狂言は『仮名手本忠臣蔵・道行旅路の嫁入』の小浪(第1部)『吉田屋』、の扇屋夕霧(第2部)、そして、女方舞踊の最高峰『京鹿子娘道成寺(きょうかのこむすめどうじょうじ)』の白拍子花子(第3部)という女方の大役ばかり。三役とも初役という。
「特に、『京鹿子娘道成寺』は父が大切にしておりました踊りで、二人で『二人道成寺(ににんどうじょうじ)』を踊ったとき、細かく教えていただきました。鐘を振り返るときの勢いや鐘への思いを終始胸に抱き、ひとつひとつの形を大切に踊りたいと思っています」
襲名を機に、父の鏡台を使うようになった。「この前で化粧していますと、自然に父に似てくるんです。父が助けてくれているのかなと思いますね」 ますます、深化を遂げそうな女方である。
インタビュー・文/亀岡 典子 撮影/八木 洋一
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