インタビューの当日、松田氏は『卒都婆小町』を勤めていた。東京の笛方森田流の代表的演者として数々の名演を聴かせてくれた氏の笛の音は、愁いを帯びた、しかし艶やかな空気をまと纏って小町を舞台へといざな誘っていた。 第38回観世寿夫記念法政大学能楽賞を受賞されたいま、これまでの歩みを尋ねてみた。
ーこの世界に入られた経緯は?
子どもの頃から笛に興味がありました。音楽を作るにはどう勉強すればいいのか、そういうことを思って国立音楽大学に音楽教育で入学し、卒業して田中一次(いちじ)先生(※1)の門をたたきました。
ー何か後押しがあったのでしょうか?
舞台を拝見して「あぁ素晴らしい、すごい笛だな」と思いまして。電話帳で調べて、先生のお宅を訪ねました。
ーその時の一次先生は?
いきなりでびっくりされたと思います。 お宅に伺って「玄人として勉強したい」といった時、聞こえないふりをされました(笑)。 でも稽古はしてあげようということで、一年間通いました。 そして一年経ってまた同じことを申しましたら、それならば笛以外の謡や鼓、大鼓、太鼓を勉強しなさいといわれ、能楽協会の養成会に入りました。
ー一次先生のお稽古は?
張扇や張盤が飛んでくるタイプの先生ではありませんでした。ただ逆に、何もおっしゃらないが故に、こちらが見切られてしまっているかな、という怖さがありました。一次先生は門をたたいてから4年ほどでお亡くなりになってしまわれたので、もっといろんなことをお伺いしたかったと思います。そのあとは、一次先生の奥様が京都の森田光春(みつはる)先生(※2)に引き合わせて下さいまして、月に一度ほど、10年ぐらい京都のご自宅にお稽古にお伺いするようになりました。
ー光春先生はいかがでしたか?
とても頭の良い、頭の柔らかい先生でした。クラシック音楽がお好きで、時には稽古場でモーツァルトのピアノ協奏曲などを一緒に聴いたり、また熱烈な阪神ファンでしたから、野球が始まる頃に下から小さなテレビを持って上がってきて、先生の解説付きで阪神巨人戦を見たことがあります。光春先生は折に触れて、笛や能のことだけではなく、専門以外のことを幅広く、良いものを見、良い音楽を聴いて、自分の幅を広げていくことが大切だとよくおっしゃられました。また、光春先生のお父様のみつかぜ光風先生がご自身で製本された手付(てつけ)(※3)が何冊もあって、お稽古にあがると何でも見せて教えてくださいました。他に、光春先生から、《 九様乱曲(くようらんぎょく)》や《津島(つしま)》といった稀曲大曲を、光風先生、光春先生、貞光義次先生、田中一次先生の聞き比べという形に編集されたカセットテープで頂戴しました。 とても興味深いです。 笛の音楽はしょうが唱歌(※4)がありますので、いわゆる純粋に器楽的な音楽というよりは言葉に近い。ですからそれぞれの吹き回し、あるいは曲に対する姿勢、あるいは聴いていると先生の姿が立ち上がってくるような、そんなふうに思えます。
ー印象に残る舞台はありますか?
光春先生がお亡くなりになられる少し前にご自身の後援会で『清経恋之音取(きよつねこいのねとり)』と『松風見留(まつかぜみとめ)』がありました。 先生は入院されていましたが、 楽屋で点滴を受けて、《音取》だけを勤められました。とても病院からいらしてお吹きになっているとは思えない素晴らしい《音取》でした。鮮烈に記憶に残っています。
また、ろうそく能『通小町(かよいこまち)』も印象に強く残っています。 一次先生がお笛で、シテが観世寿夫先生と梅若玄祥先生、ワキは宝生閑先生、梅若の能舞台であったと思います。特にろうそく能だったこともあって、舞台と見所のお客様とが一体となった独特の闇の空間がある。そこに最初に一次先生が名ノリ笛を吹かれて、 笛の音の中にその物語の世界があると思いました。 一つの音の中に、ひと吹きの中に、能のエッセンスが凝縮されて秘められているような気がします。私もそんな音を目指したいと思います。
ー古典や新作を問わず、また海外での公演活動など、その功績が認められてのご受賞ですね
一次先生、光春先生に教えをいただいたと同時に、梅若玄祥先生にも本当にいろんなことを教えていただき、あるいは多くの機会を与えていただきました。新作能や復曲能の経験をすると、能を初めて作った人達がどういう風にしてこの能を作りたいと思い、あるいは作ってきたのかという視点から取り組んでいけると思います。
西洋と東洋とでは、言葉も風土も宗教も違いますが、同じように生まれ、様々なことがあって死んでいくという点については共通していると思います。例えばイギリスに海外公演で行った時、聴いてくださった年配の女性の方から「あなたの吹いている笛の音は、日常的な世界ではない音だと思いました」と言われたことがあります。世界的にみると特殊な笛だと思いますけれど、言葉を越えて伝わっていく、共有することができると思います。
また、モスクワの演劇の殿堂といわれる会場でも能をしましたが、 とても温かい拍手でした。強く印象に残りました。ロシアは音楽もバレエも文学も層が厚い。そういうものを見て受け継いできたお客様たちが、東洋の東の国で作られたものに共感してくださっている。
能は世界的にみると特殊な演劇的要素を持ったものだと思いますけど、優れたものは国を越えてちゃんと共有することができる、これは大丈夫なんだと感じました。
入門から現在に至るまで、実に様々な経験を積まれた松田氏。丁寧に言葉を紡ぐ氏の姿は、師匠に対する憧れと尊敬の念に溢れていた。
そして、内に秘めたる能への思いは豊かな響きとなって舞台に彩りを与えている。
※1 田中一次 (1910〜1981)
笛方森田流。小鼓方として修業を始めたが、指を痛めて断念。笛方に移り、 1932
(昭和7)年梅若家に入門、座付囃子方で世に出た。1940(昭和15)年隠退中の森田光風に入門し、流儀の最高秘曲《九様乱曲》まで教えを受ける。
※2 森田光春(1916〜1992)
笛方・森田流分家の長男に生まれ、幼少時より父・森田光風に師事。1925(大正15)年初舞台。大卒後銀行員になるが、父の引退により復帰、現行曲のほとんどをつとめる1947(昭和22)年より京都で活躍。
※3 囃子の楽譜
※4 旋律に文字をあてはめて唱えること
インタビュー・文/亀岡 典子 撮影/八木 洋一
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