高音の澄んだ音色が能楽堂の空気を切り裂く。凄まじい迫力の掛け声が場内に響いた。
能楽大鼓方葛野流家元、亀井広忠は、能舞台で、ただ者ではない気配を醸し出す。
「舞台に出てきただけで、その姿形、居住まい、構えもふくめ、お客さまにそういう印象を持っていただければいいのですが…」。照れたように笑うとちょっと童顔に見えるが、舞台での印象はガラリと変わる。能の大鼓は男らしい楽器だ。右手を大きく横に広げ、裂帛の気合とともに大鼓に向かって打ちおろす。
「大鼓は囃子方を統率し、シテ方や地頭とともに曲を作り上げていきます。大鼓が囃子の骨格を作り、小鼓は彩りを豊かにする。そして、シテを助け、シテを鼓舞し、時にはシテに従う。互いにぶつかり合わないといい緊張感は生まれないのではないでしょうか」
父は葛野流大鼓方の前家元で人間国宝だった亀井忠雄、母は歌舞伎囃子方の田中佐太郎。能と歌舞伎、両方の囃子方の名家に生まれ、長男の広忠は父の跡を継いで大鼓方に。二人の弟、田中流家元、田中傳左衛門と田中傳次郎は母と同じ歌舞伎囃子方の道に進んだ。伝統芸能の世界で有名な三兄弟である。
昨年六月、父、忠雄が亡くなった。前日まで申し合わせの舞台に出ていたという。
「私がありがたかったのは、父は二十五歳のとき自分の父が演能中に倒れ、急遽代わるという経験をしていますので、私にも小学生の頃からいつでも代われるよう大曲を教え込んでくれたのです。おかげで、『関寺小町(せきでらこまち)』以外は老女物もすべて勤めさせていただきました。今となってはそういう教育をしてくれた父に感謝しています」
能の大鼓方の道を選んだのは自身の意志だった。
幼稚園の頃、父の舞台を見て、「かっこいい」と思い、「自分も能をやりたい」と申し出た。「ですから次男は必然的に歌舞伎に行かざるを得なかったのです」と苦笑する。
能と歌舞伎が同居する家に生まれたこともあり幼い頃から両方の芸能を見て育った。母や母方の祖父、十一世田中傳左衛門は幼い三兄弟を、歌舞伎座や南座、国立劇場などに歌舞伎や文楽を見に連れていった。
「歌舞伎では大成駒(六世中村歌右衛門)の『京鹿子娘道成寺(きょうかのこむすめどうじょうじ )』や紀尾井町(二世尾上松緑)の『勧進帳(かんじんちょう)』も拝見しましたし、文楽では四世竹本越路太夫師匠にはまりました。そういうすごい舞台に子供の頃に出合えたことは幸せで、さまざまなインスピレーションを受けました」
父、忠雄からは、能一曲に臨む精神を学んだ。忠雄は「能舞台は戦場だ」と、つねに命がけで舞台に出ていた人であった。その精神は広忠にしっかり受け継がれている。
「当たり前ですが、その日の舞台に上がるときは、今晩の予定や明日の舞台など考えられない。死んでもいいぐらいの覚悟で舞台に上がっていますけれども、どこかで少しだけ冷静でないといけない。父もそういうところはありました」
いま、広忠をはじめ三兄弟はそれぞれ、能楽、歌舞伎の囃子方の第一線で活躍。異なる芸能を繋ぐ役割も担い、二十代の頃から「三響會」を結成して、『石橋(しゃっきょう)』を能楽師と歌舞伎俳優の共演で上演するなど実験的なコラボレーションも行ってきた。
「当時、歌舞伎と能が同じ板の上に乗ることはほとんどなかったと思います。それができたのは、自分たち兄弟の体の半分に能楽囃子方の血、もう半分に歌舞伎囃子方の血が流れているから。囃子という共通言語があったからです」といい、「互いの芸能の特色や共通点を身をもってわかったことは大きかった」と成果を語る。
今年十二月に五十歳になる。
本人は「能楽の世界では四十、五十はまだまだ洟垂れ小僧ですよ」と謙遜するが、技芸、経験、人間力ともに、ちょうど脂の乗ってきた年代でもあり、いま東西の大きな舞台に頻繁に呼ばれ、社会的な話題を呼んだ新作「能狂言 鬼滅の刃」の作調を手掛けるなど多忙を極める。
「父が亡くなり、いままで以上に発言や舞台に責任を持たなければならないと思っています。自分の言葉ひとつで流儀が動く。そういう重みも感じます」と言葉をかみしめる。
その上で、五十代の能をどう作っていくのか。
「これまで教えていただいた先生方の舞台を思い出しながら、そして忘れないようにしながら、毎回の舞台に新しい気持ちで臨み、ひたすら積み重ねていくだけです」
それこそが世阿弥のいう「初心忘るべからず」。ストイックに、新鮮に、能を極めていく。
インタビュー・文/亀岡 典子 撮影/後藤 鐵郎
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