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吉田 和生

KENSYO vol.135
吉田 和生
Kazuo Yoshida




吉田 和生(よしだ かずお)
1947年愛媛に生まれる。1967年7月文楽協会人形部研究生となる。
同年、故吉田文雀(人間国宝)に入門、吉田和生と名のる。1968年4月初舞台。
平成15年度大阪文化祭賞、平成25年度芸術選奨文部科学大臣賞、平成26年度国立劇場文楽賞文楽大賞ほか多数受賞。 平成29年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定、令和元年旭日小綬章受章、令和6年度文化功労者に選定。




きっと師匠は、
『おまえがなあ』とおっしゃっているんじゃないかな

 長年にわたって文楽の振興 に力を尽くしたとして、令和六年度の文化功労者に選ばれた。
 「僕でいいのかな」。 知らせを受けてまず思ったのはそのことだった。 文楽の人形遣いで、近年、文化功労者に選ばれたのは初代吉田玉男、昨年十一月に亡くなった吉田簑助。 その前となると桐竹紋十郎、吉田文五郎といった歴史的な名人にまでさかのぼる。
 「そういう方々の中に入らせていただいていいものか。 うちの師匠(吉田文雀)でもいただいていないものを。 もちろん、大変ありがたいことですけど、信じられない気持ちでした」。
 そう言ってから、ふっと頬をゆるめた。 「きっと師匠は、『おまえがなあ』とおっしゃっているんじゃないかな」。
 立役、女方と芸風は幅広い。なかでも、「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」の戸無瀬や「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の政岡など、 「片はずし」といわれる女方の最高の役どころや、昨年十一月に国立文楽劇場で勤めた「仮名手本忠臣蔵」 の塩谷判官のような品格と肚を求められる立役などに本領を発揮。 「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の覚寿など難役といわれる老女もいま、この人のものといえる。 いずれも師の文雀が得意としていた役どころだ。
 「師匠が演じた通り継承しなければいけない部分と、自分の考えで工夫できる部分を見極めて遣わなければならないと思っています」。
 師匠からはよく、「人形は見た目がきれいでなかったらあかん」と教えられた。
 「ですから、人形に衣裳を着付ける人形拵えに強いこだわりがあり、入門して最初の頃は一体の人形を作るのに三時間も四時間もかかる。 覚えるだけで大変でした」。
 やっと出来たと、師匠に見てもらうと、「和生、これ、舞台で使えるか」と厳しいダメ出し。 「一からやり直しです。師匠は何がだめなのかは言ってくれない。自分で何十体も作って、ようやくわかってくるもんです」。
 たとえば、女方の衣裳を着付けるときは、きゅっと締める部分のどこかに緩みが必要なのだという。「それが柔らかさとか、ふくらみにつながるんですね」。
 二言目には師、文雀の話が出る。それは感謝の気持ちであり、師の指導法であり、師弟関係のほほえましいエピソードでもある。
 「僕みたいな愛媛の山奥から出てきて西も東もわからない者を内弟子にして、人形遣いとして育ててくださった。ありがたいという思いしかありません」。
 人形浄瑠璃の盛んな愛媛県西予市の出身。 だが、生の文楽の舞台を見たことはなく、「ひとりでコツコツ何かを作るのが向いている」と、高校卒業時、職人を目指して、 当時、文楽人形の首を作っていた大江巳之助を訪ねた。 そこで、文雀を紹介され、初めて大阪の朝日座で文楽の舞台を見せてもらった。演目は「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」だった。
 「師匠がどんな役だったか、全然覚えていません。夜行列車で来たから半分寝てたかもしれないなあ。 でも、ちょっとだけ、おもしろいかなと思いました。人形遣いはしゃべらなくてもいいので、それも自分に合ってるかなあと」。
 その夜は文雀の自宅に泊めてもらった。翌朝、「どうする?」と聞かれ、そのまま入門することになった。 「当時、人形遣いは人手が足りなくて三十人くらいしかいなかった。師匠も人材を確保したかったんと違いますか」と笑う。
 文楽博士と異名をとった文雀の指導は独特だった。 たとえば、女方の大役、「妹背山婦女庭訓」の後室定高と、「仮名手本忠臣蔵」の戸無瀬。 どちらも、娘の首を打ち落とさねばならないという苦渋の決断を迫られる母親だ。
 「師匠は、『設定はほぼ同じやろ。でもこの二人は違う』とだけ言われる。定高は刀を一回で振りおろして娘、雛鳥の首を落とす。 一方、戸無瀬はなかなか娘、小浪の首を落とせない。なにが違うから、そういう行動になるのかは言ってくれなかった」。 そこは自分で床本を読み込んで考えなさいということであろう。「この場合、定高と雛鳥は実の母娘ですが、戸無瀬と小浪は義理の母娘。 同じ母娘でもそこに違いがあるのです」。
 人形を遣うときは人物の背景や前身まで意識して演じなければならないということ。「本を読むとはそういうことだと思います」。
 文楽の人形は太夫と三味線が勤める浄瑠璃にのっとって動かす。その枠のなかで表現しなければならない。
 「その枠の中で七転八倒して考え、工夫し、役を作っていく。それが人形遣いの醍醐味かもしれません」。
 ただいま七十七歳。最近は、「この役も今回でおしまいかな」と思いながら勤めることが増えたという。師匠も晩年そうだった。 だからこそ、いま改めて、師匠の舞台映像を見直している。「やっぱり上手いなあと思いますね」。 そう言いながら、「人形遣いはだいたい、五十代後半から七十歳くらいまでが一番充実しているように思います。 体力、気力、経験、さまざまなものが最高のところで合致するのがこの年代。人形遣いは、 この十五年のために、三十年以上苦労するんじゃないでしょうか。 いまは、一番脂が乗っていたときにガンガン遣っていたのとはまた違う表現が求められているように思います」と、静かに語った。
 ただ、不思議なことに、「この役はこれが最後」と覚悟しても、そこに格別の寂しさはないのだという。「遣いたくても体力の問題で遣えない。 それは仕方のないことです。それに、こういうことはずっと順送りでやってきていますから。 それが伝承芸能の宿命。僕らは上の世代から教わったことを次の世代にしっかり渡していくことしかない」。
 令和七年一月の大阪・国立文楽劇場「初春文楽公演」は、「文化功労者顕彰記念」の冠がつく。 勤めるのは「仮名手本忠臣蔵」の戸無瀬。翌月の東京公演も同じく顕彰記念として「妹背山婦女訓」の定高を勤める。女方の最高峰の大役が続く。
 「体力的にも大変ですし、神経も使う役。責任を持って勤めたいと思っています」。


インタビュー・文/亀岡 典子   撮影/墫 怜治



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