KENSYO>
歌舞伎・文楽インタビュー バックナンバー
KENSYO vol.136
澤村 精四郎
Kiyoshiro Sawamura
澤村 精四郎
(さわむら きよしろう)
1978年生まれ。 88年7月歌舞伎座『義経千本桜』の子狐で初舞台。
95年3月澤村藤十郎に入門し、5月こんぴら歌舞伎「廓文章」の吉田屋若い者役で澤村國矢を名のる。 2010年2月歌舞伎座『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』の若い者千吉で名題昇進。 24年12月、歌舞伎座『あらしのよるに』にて狼のばりい役で、澤村藤十郎の芸養子となり、二代目澤村精四郎を襲名し幹部昇進。
2012年第十八回日本俳優協会賞奨励賞。18年重要無形文化財(総合認定)に認定され、伝統歌舞伎保存会会員となる。20年日本俳優協会賞本賞。
二代目 澤村精四郎を襲名。
約半世紀ぶりの名跡復活。
令和六年十二月、入門以来 名乗っていた澤村國矢から、二代目澤村精四郎を襲名した。 「精四郎」は、師匠である澤村藤十郎の前名で、襲名と同時に藤十郎の芸養子となり幹部昇進も果たした。
実は幹部昇進には、精四郎が「兄貴」と慕う先輩俳優、中村獅童の仲立ちがあった。 獅童は自身が主役を勤める「超歌舞伎」シリーズの「リミテッドバージョン」で、 自身が演じている主役に抜擢するなどその実力を高く評価していた。
「獅童さんが、会社(松竹)に『しっかりした立場にしてあげて』と言ってくださったと伺っています。 本当にありがたいことです」と感謝の思いを語る。
「ただ、私も、三十年近く國矢という名前でやらせていただいてきたこともあり、 当初は名前はこのままでもいいのではないかなと思っていたのです。 でも師匠のお勧めもあり、継がせていただくことになりました。 師匠の精四郎時代には私はまだ生まれておりませんでしたが、 映画で名を馳せていらっしゃったので、小さい頃から知っている名前でした。 それだけに私でいいのかという思いもありました」。
約半世紀ぶりの名跡復活。 「ですので、みなさん、『きよしろう』となかなか読んでくださらなくて」とちょっと困った笑顔を見せる。
「でも獅童さんは『かっこいい名前だな、忌野清志郎さんみたいで。ロックの神様だぜ』とおっしゃったんです。 ああ、そうかと。獅童さんは熱いロックの魂を持っている方。 私もこの名を継がせていただいたからには獅童さんのように心にたぎるものを持ち続けていたいですね」。
歌舞伎とは無縁の一般家庭の出身。子供の頃は児童劇団に入り、歌舞伎の公演などに子役で出ていた。 十歳のとき、歌舞伎座で上演された「河内山(こうちやま)」に小姓の役で出演。 同じ舞台に出ていた藤十郎がよく声をかけてくれた。運命の出会いだった。
以降も、子役として活躍していたが、中学時代、迷いが生まれたという。
「ちょうど思春期で、その年代って、子役でもない、大人の役はまだ出来ないという年頃で、歌舞伎の舞台から少し遠ざかる時期なんです。 友人たちは進学や 就職など将来の道が決まってくるのに自分はこの先どうなるんだろうと不安になったりしましたね。 もちろん自分が悪いんですけど、師匠が口添えして入れてくださった国立劇場の歌舞伎俳優研修も遅刻したり、 さぼったりで結局辞めてしまうことになって…」。
師匠に謝りに行ったところ、「もう弟子にとらない」と厳しく言われ、 そこで初めて歌舞伎をやれなくなってしまうことにショックを受ける。 「自分は歌舞伎をやっていきたいんだと思い知りました」。 何か月も師匠のもとに通い詰め、雑用などの手伝いをした。 精四郎の覚悟を師も認めたのであろう、改めて弟子入りすることを許されたという。
そこからの精進は誰もが認めるところだ。端正でちょっと古風な容貌は歌舞伎向き。 立役なら二枚目から恐ろしい敵役まで幅広く、女形もやれる。しっかりした演技は先輩俳優の信頼を得て重要な役どころを任されるようになっていった。
「僕の場合、マイナスからのスタートでしたので、人の二倍も三倍もがむしゃらに頑張らないといけなかったのです」。
藤十郎は「普段の生活が舞台に出る」と言ったという。楽屋で師匠が望む用事を気を利かして先回りして行う。 舞台では師匠が勤める役に必要な小道具の準備をし、たとえば、草履をはく位置なども把握して一番ふさわしい場所にそろえる。
「師匠が女形ですので、そういうところに気を配ることの大切さを教えていただきました」と感謝の気持ちを忘れない。
令和元年、大きなチャンスが巡ってくる。京都・南座で、獅童がライフワークのように続けている超歌舞伎「今昔饗宴千本桜(はなくらべせんぼんざくら)」 に敵役の青龍の精で出演していたところ、特 定日の「リミテッドバージョン」で獅童の代わりに主役の佐藤四郎兵衛忠信を勤めることになったのだ。 「超歌舞伎」とは歌舞伎俳優とバーチャルシンガーの初音ミクが、NTTの最新技術を駆使した舞台で“共演”するまったく新しいスタイルの歌舞伎。 それまで歌舞伎に接したことのなかった若者が劇場に押し寄せたことでも話題になった。
精四郎自身、若手の勉強会などで主役を勤めたことはあったが、歴史ある南座の本公演で主役を勤めるのは初めて。 当初は「超歌舞伎の主役は獅童さんしかいないと思っていたので、無理だと思いました」と戸惑いを隠さなかったが、 いざ本番の舞台では迫力たっぷりに忠信を勤め、 ライブコンサートと見まがうばかりの観客とのコール&レスポンスもしっかり勤め、これまで培ってきた成果を見せた。 そんなさまざまな経験が、幹部昇進や襲名につながっていったのであろう。
幹部になったいま、これまでやってこなかった大きな役が回ってくるようになった。 四月に四国の金丸座で開催される「四国こんぴら歌舞伎大芝居」では、義太夫狂言「毛谷村(けやむら)」の斧右衛門、 江戸の生世話物「魚屋宗五郎(さかなやそうごろう)」の小奴三吉、落語をもとにした「らくだ」では手斧目半次と役どころは実にさまざま。 なかでも「魚屋宗五郎」と「らくだ」は、獅童と息の合ったやりとりを見せる大切な役でもある。
「いまはいただくお役がすべて新鮮です。三吉は宗五郎の家族のチームの一員となれるよう演じたいですし、 半次は江戸っ子の雰囲気と落語の空気感を大切にしたいと思っています」。
名門、紀伊国屋は人間国宝だった澤村田之助が令和四年に八十九歳で亡くなり、師の藤十郎も平成十年に脳出血で倒れて以来、 歌舞伎の舞台復帰に向けてリハビリ中の日々。
「いままで紀伊国屋の芸を意識して教わったことはなかったのですが、どこまでできるかわかりませんが、 今後は紀伊国屋の芸風というものを少しでも勉強していければと思っています」。
精四郎という名前は、師匠に体現されるように麗しいイメージという。 「でも僕はそういう雰囲気ではないので、あまりイメージにとらわれず、オールマイティーにやらせていただければと思っています」。
歌舞伎の可能性を開く立役は凛と姿勢を正した。
インタビュー・文/亀岡 典子 撮影/後藤 鐵郎
●
ページTOPへ
●
HOME
Copyright(C) SECTOR88 All Right Reserved. 内容を無断転用することは、著作権法上禁じられています。