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能 狂言インタビュー バックナンバー
KENSYO vol.136
十四世 林喜右衛門
KIEMON HAYASHI
林 宗 一郎 改メ
十四世 林喜右衛門
(は やし きえもん)
能楽師観世流シテ方。 林家十四世当主。
自主企画公演、海外公演、多様なジャンルとのコラボレーションなど幅広く活動。
2014年 平成26年度京都市芸術文化特別奨励者認定
2020年 重要無形文化財総合認定
2024年 令和5年度京都府文化賞奨励賞受賞
2025年 林家創始400年を迎え、4月から10月にかけて4都市にて襲名披露能を行う
十四世 林 喜右衛門を襲名。
伝統と革新を双肩に担う。
四月、江戸期以来、代々の当主が名乗ってきた林喜右衛門を十四世として襲名する。 林家は、歴史ある京観世五軒家の一つで、江戸・寛永二年に創始されて以来、今年はちょうど四百年。 父の先代喜右衛門が亡くなって八年となる。
「父が元気な頃から、いつかは名前を継がなあかんことは自覚していましたが、自分の中ではまだ若いのでもう少し先でもいいのかなとか、 いまの時代に名前が仰々しいのではないかなとか、いろいろ考えていました」。
長く親しまれてきた「林宗一郎」からの襲名に複雑な胸中を明かす。
決意のきっかけはコロナ禍のとき、家に保管されていた資料や書物を調べるうち、 十一世喜右衛門が創始三百年の記念の能を催したという記述を見つけたことだった。
「四百年はいつかなと数えてみたら、ちょうど今年だったのです。 せっかくならおめでたい節目に、先祖やこれまで支えてくださった方々に感謝の気持ちを込めて襲名させていただこうと思いました」
京観世五軒家とは、江戸初期、観世流宗家が江戸に移ったあと、宗家から託され、京都で観世流の素謡の師範をつとめた五家のこと。 林家は現在まで連綿と続いている名家であり、定期能を開催するなど活発な活動を行っている。
「これまでは宗一郎という役者を前面に出した催しを行ってきました。 でも子供を授かり、父から代を受け継いだとき、もう宗一郎ではあかんのやなと思ったのです。 ここで当主名を襲名し、家のために、観世流のために、そして能楽界全体のために、心血を注いでやっていかなければならないと痛感しました」。 粛々と語る言葉は重い。
花のある舞姿に朗々たる謡は、いかにも京観世らしい気品に満ちている。 幼いころからストイックに能に向かう父の姿を見て育った。
「若いときはそんな父に対して、そこまで頑張らんでもええのにと思ったこともありました。 父は若い頃、空手や野球をしていたので根性でやり抜く人でした。 でも自分が年を重ねるにつれ、どこまでやっても稽古が足りていないと思うようになり、父のやっていたことの大切さを思い知らされています」。
もう一つ、父に学んだことは「謡が上手でないとあかん。 型だけでは能は成り立たない」ということだった。 「これこそ、元々謡を専門としていた当家の誇りを忘れるなよ、との先祖からのメッセージであり家訓とも言えるのかもしれませんね」。
能の家に生まれ、「幼少の頃は父のあとについて稽古を受けておりましたが、中学生頃になりますと放ったらかしにされて、 当時の書生さんに教えてもらったり、共に稽古したりして、仕上げを父に見てもらうという形でした。やめたいと思ったことは一度もなかった。 ただ、若い時は舞台が好きやったけど、向上心はなかったですね」。
意識が変わったのは二十二歳のときだった。 「このままでは絶対あかんと。 いつか家を継いだとき、リーダーシップをとれる役者になっているだろうかと不安に襲われました。 そこへちょうどお家元(観世流宗家、観世清和)との出会いがあり、もっと学びたいと思ったのです」。
翌年、いてもたってもいられず上京。 観世清和のもとで書生となり、新たな修業の日々が始まる。 宗家からは「舞台にはその人そのものが出る」と教えられた。 それはいつ、どんなときも心に留めていることだ。
書生に入りたての頃、稽古能で「殺生石(せっしょうせき)」を舞った。 終わった途端、太鼓方のベテランから「おまえ、いままで京都で何をやってきたんだ」と一喝された。 「今思えば恥ずかしいことで、自分では出来ているつもりだったのですが、全然通用していないのだと思い知らされました。 厳しいお言葉でしたが、そのおかげで、ものを知らないことの恐ろしさを知りました。東京に出ていってよかったです」。
もうひとつ、忘れられない出会いがある。 上京する直前、映画「ラストサムライ」の撮影で京都に来ていた俳優、 真田広之と同席する機会があった。 話の流れから「数日後、東京に修業に行きます」というと、 別れ際「頑張ってください」と激励してくれた。
「励みになりました。 真田さんは単身アメリカに渡られて頑張られ、近年は日本の文化である侍の世界を映像にして国際的な賞を受賞された。 いつかお会いできたら、おかげさまで頑張っています、とお礼を言いたいです」。
「襲名披露能」は地元の京都観世会館(四月五日)をはじめ、東京(七月五日)、鳥取(十月五日)、岡山(十月十二日)の所縁のある4都市で行われる。
京都では大曲「卒都婆小町(そとわこまち)」を「一度之次第(いちどのしだい)」の小書きで勤める。 老女物も小町物も初めて。 絶世の美女と謳われた小野小町の老残の姿を描いた曲で、変化に富んだ劇的な構成のなかに誰にでも訪れる「老い」を深遠に描き、 人生そのものを考えさせられる名曲である。
「自分の人生の先を思ったとき、 ちょうどいま、 半分くらいまできているのかなと思った。 老いというものを感じ始める時期でもあります。初めて勤めるにあたっては、 教えに従い素直に舞おうと思います。 次があれば、この経験をもとにもう一歩歩みを進めてみようと思います」。
もう一曲は半能「石橋(しゃっきょう)」。 「大獅子(おおじし)」の小書きで勤める。 清和が白頭、新・喜右衛門と長女の彩八子、次女の小梅の三人は赤頭で勤める。
「親獅子が仔獅子をあえて千尋の谷に蹴落とし、 はい上がってくる子だけを育てるという故事にならった曲です。 厳しい道ではありますが、 まずはこの道を好きになってほしいという願いを込めてこの曲を選びました」。
「林定期能」という公演名を「SHITE(シテ)」に変えたり、「KYOTO de petit 能(京都でプチのう)」という新しい形態の公演を始めたりと、新たな観客の開拓にも積極的だ。
「この前も、高校生の女の子がふっと能を見に来てくれました。 日本の大事な文化を必要と思ってくれたようです。 間の取り方や日本人独特の受け答えなど、伝統文化には大切なものがたくさん含まれています。 今後も、いまに生きる能楽師の役目として能をもっと身近に感じてもらえる努力もしていきたいですね」。
令和の時代、十四世林喜右衛門は伝統と革新を双肩に担う。
インタビュー・文/亀岡 典子 撮影/後藤 鐵郎
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