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能 狂言インタビュー バックナンバー
KENSYO vol.140
津村 禮次郎
REIJIRO TSUMURA
津村 禮次郎
(つむら れいじろう)
シテ方観世流。福岡県出身。一橋大学在学中に女流能楽師の草分である津村紀三子に師事し、卒業後は先代観世喜之に師事。
1974年、緑泉会を継承。年4回の緑泉会定例公演のほか、1979年に『小金井薪能』を作家・林望などと設立、地域文化と能楽の発展に大きく貢献。古典能の公演のほか指導者としての若手育成、新作能や創作的活動も積極的に行っている。
異分野のアーティストとのコラボレーションで能楽の可能性を広げ、2011年には文化庁文化交流使としてロシアとハンガリーに派遣され、国際的な評価を得ている。2024年には創作能公演として国立能楽堂にて能「鳴門の第九」など多くの作品を協働して制作している。
能の身体って、もっとすごいんじゃないかと思ったのです
能の枠組みを超え、さまざまな芸能との出会いから新たな表現を創造。八十四歳にして、世界を舞台に縦横無尽の活躍をする能楽師、津村禮次郎さん。その活動は能の可能性を無限に広げ、現代のわたしたちに、芸術の「限界突破」のありようを見せてくれる。
「日本の芸能というのはおもしろい。能も歌舞伎も文楽もみな繋がっている。『道成寺』にしても、『安宅』にしてもそうでしょう」といい、「なかでも能はある意味で日本の文化の源流のひとつ。レビューではなく、ドラマとして劇構成にした日本最古の演劇であり、それを完成したのが室町時代の観阿弥、世阿弥親子。そういう流れが、現代にまで続いているところが日本の文化のすごさですね」。
古典の能を追求しながら、自分よりずっと若いバレエダンサーの酒井はな、コンテンポラリーダンサーの森山開次ら異ジャンルのアーティストとコラボレーションを行い、新しい芸術を創造し続けてきた。
インタビュー取材した日は、津村さんが1月のインド公演から帰国してほどなくであった。だが疲れは一切見せず、快活な笑顔で明快に自身の半生や思いを語る。その姿に、この人が培ってきた強靭な身体性と精神の力を垣間見た気がした。
能楽の家に生まれたわけではない。出身は福岡県北九州市。能との出会いは一橋大学に進学後。先輩に誘われて学内の能のサークルの公演を見に行った。
「そこで感動したんですよ。能の文学性にではなく、能楽師の身体性と囃子音楽の表現力が僕にフィットしたのでしょう。学生がやっていてもおもしろいと感じました」。
中・高時代は美術部で、抽象画を描いていた。能も抽象的な芸術の一面がある。そういう親和性も彼を能に引きつけたのではないだろうか。
大学三年生のとき、香港からベトナム、カンボジアなど東南アジア各国を回った。
「外から初めて日本を見たんです。そのとき、日本というのは多様な文化を育んだ、なんと素晴らしい国なんだろうと思いましたね」。
この海外経験も能にはまるきっかけの一つになった。ただ、プロの能楽師になる決意はなかなかつかなかった。当時は能は働きながら続けていければいいと思っていたという。
そんな折四年生の時、能「花月」のシテ役を勤めることになり、指導して頂いていた津村紀三子の元で本格的に能に向き合うことになる。
「徹底的に能の身体性を叩き込まれました。当時、僕はやせていて、いかり肩で、能装束を着ても、みっともなかった。能楽師は自分で自分の体を使わなきゃならないのにそれが出来なかった。また、『世阿弥は読むな』とも言われました。頭で考えるよりまず能の身体を作ること。型に心をのせていくということを教えていただきました。もちろん、後に世阿弥は読みましたが」。
プロの能楽師になると決めたのは「勢いだった」と笑う。「だって、無謀なわけですよ。でも、それくらいでないと、とても能の家の生まれでない僕のような人間が能楽師になろうとは思わない」。
実際、能の世界に入ってみると、大きな壁が立ち塞がった。「能舞台に出る前の緊張感が尋常じゃなかった。舞台に上がると自分一人だけなじんでいない。空気が違うのです」。それは能の家に生まれた人たちとの決定的な違いであった。「彼らは幼いころから能舞台がすぐ近くにある。だから緊張しないんです」。
限界を感じて三度やめようと思った。二十六歳のときに家出をして、伊豆の佛現寺で寺男として働いたこともあった。踏みとどまったのは「結局、能という芸能が好きで、師の芸を尊敬していたからです」。
幸運だったのは、二十代の若さで「道成寺」や「安宅」などの大曲を披くことが許されたことだった。「(師の)津村のバックアップと、指導を受けていた先代観世喜之先生のおかげです」と謙虚に語るが、やはり津村さん自身の才能と能に対する姿勢が認められたからであろう。
古典の能を突き詰めていく一方、五十歳を過ぎた頃から、ある思考が沸々と沸いてくるようになった。
「能楽師は白い足袋をはき、装束をつけて能面をかけ、橋掛りから歩いてくる。それが能を勤めるということ。でも装束や能面や足袋がなくても、能の身体性を持っていれば、能になるんじゃないか。能の身体って、もっとすごいんじゃないかと思ったのです」。
ちょうどそんな折、新進気鋭のコンテンポラリーダンサー、森山開次と出会う。森山は二十代。「能を勉強したい」と言ってきたという。「バリバリの金髪に短パンでしょ。でも僕はそういうの全く気にならないし、本人はとてもやさしい人だった。コミュニケーションを取って互いの芸をリスペクトしながら、そこから何か新しいものを創っていけるんじゃないかと思ったのです」。
以来、森山とのコラボレーションで、能をモチーフにした「弱法師」「OKINA」などを創作して新国立劇場で上演、大きな評判を呼んだ。「『OKINA』では僕が地球のコアとなり、彼が生物や動物となって舞いました。彼は黒いタイツ、僕は黒い袴。最後は二人とも上半身裸になったのは、恥ずかしながらも面白く観て頂いた」。
森山のほかにも、バレエダンサーの酒井はな、同世代の舞踏家、笠井叡らとも共同作業を行った。また、西洋音楽やシェークスピアなど西洋の題材も能に昇華した。
「シェークスピアの本場、英国で『オセロー』を上演した際、当地の舞台作りをしていた英国人の老人の方が『いままで見たオセローの中で一番感動した』と言ってくださった。うれしかったですね」。
そんな津村さんが近年取り組んだ映像作品が「真人の世界」。神と自然と信仰から日本という国の文化を探るドキュメンタリーに出演。また、能の大成者、世阿弥を描いたアニメ「ワールド イズ ダンシング」(今夏放送予定)では監修を務め、さらに、今春にはチェコとポーランドの歴史的建造物などを舞台に、能とヨーロッパ音楽との共同新作を上演する。
その一方で、能楽師が一生に一度勤められればいいといわれる能の最奥の曲「姨捨」を二年前に勤めるなど、異能の人は、古典の王道を極めつつ、能の未来を果敢に切り開き続ける。
インタビュー・文/亀岡 典子 撮影/武内 基展
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