KENSYO>能狂言インタビュー バックナンバー
|
KENSYO
vol.36
喜多流シテ方粟谷 菊生
KIKUO AWAYA
逆境を踏みたたむ
人間国宝の自分流 |
|
粟谷 菊生(あわや
きくお)
1922年喜多流の名地頭とうたわれた粟谷益二郎の次男として東京都で生まれる。父及び故喜多六平太、故喜多実に師事。1991年観世寿夫記念法政大学能楽賞を受賞。1996年には重要無形文化財(人間国宝)の指定を受ける。2000年日本芸術院賞を受賞。 |
大槻能楽堂で「菊生会」の申し合わせ(舞台稽古)を拝見した。粟谷菊生さんの大阪のお弟子さん達の会である。長時間、橋懸り(はしがかり)の柱に手をかけ舞台をじっと見つめる菊生さんの様子は、少し遠くから大事な人を見守る親の慈愛に似たたたずまいで、立ち姿じたいがしみじみとした能の舞台の一場面を想起させる。時々、愛情のこもった叱咤の声が響く。折しも前日、優れた芸術に業績の深い人に贈られる芸術院賞を菊生さんが受賞、との発表がされた喜ばしい日であった。
菊生さんは、若い人が好きである。今はなくなったが五十年前に東京大学に、大阪大学には三十年前から喜多会を創設し、学生達にみっちり芸を教えてきた。阪大合宿では、学生達とともに同じものを食べ飲み、心ゆくまで能と人生について語り合ってきた。打てば響くわかもの達との交流は次世代への「植林」のようだという。
菊生さんは、大正十一年(1922)、東京にて喜多流シテ方粟谷益二郎氏の次男に生まれる。粟谷家は芸州広島藩浅野家お抱え能楽師の家柄。父君の代で東京へ移る。父君は豊麗な舞姿と美声で名地頭(地謡のリーダー)だった。兄に新太郎さん、弟に辰三さん、幸雄さん、一家揃って能楽師として活躍していく。菊生さんは幼少時代、父君に習い、『鞍馬天狗』(くらまてんぐ)で初舞台。先代宗家喜多実師には基礎をしっかり学んだ。戦争から戻り、祖父ほどに年の違う十四世喜多六平太師につき、能楽師の哲学といったものを折にふれ教わる。様々な教訓のなかに「自分流でいいのだ」の師の一言はのちのち菊生さんのささえになる。
菊生さんは、子供の頃から「剽軽者(ひょうきんもの)」といわれた。その愛すべき性格の次男ゆえに、子供のいない親類の鉄問屋へ養子に出されそうになった事がある。試しに出された鉄の買い付け。菊生さんは極上の鉄を言い値で買った。商人には不向き、養子はとりやめとなった。最上の鉄を見つける目利きと値切りなどできぬ身についた端正は能の世界に最もふさわしいものだったのだ。居るべき場所に落ち着いた菊生さんはじわっと人の心を暖めるやわらかい笑顔の下に堅牢な志と自らに命じる厳しい課題を隠していた。兄の三倍は努力しよう。大鼓、小鼓、笛を猛稽古する。狂言。落語。間や息づかい。能以外の周りのものもすべて教材であった。舞台と同じ空気が吸いたいので、狂言は硝子越しではなく幕の隙間から見る、聴く。人とのつながりにも積極的だった。観世寿夫さんや栄夫さん、静夫さん(現・銕之亟)、野村万之丞さん(現・萬)など他流派の人たちと交流。ヨーロッパへの初の能公演は喜多実師を頭に観世と喜多の混成だった。
父君が演能中に倒れたのは昭和三十三年だった。『烏頭(うとう)』で「陸奥のー」と謡いながら倒れ、兄新太郎さんと二人で楽屋へ抱き運んだがそこで往生された。今の横浜能楽堂となっているかつての染井能楽堂の舞台である。菊生さんはそれから間もなく、父の敵討ちのつもりで『烏頭』を舞っている。哀しみを踏みしだいて前へ進む。菊生さんの自分流であった。
菊生さん自身、入院は多い。病歴は壮絶である。交通事故で左腕に大ケガをした時に手術で金具がはめ込まれた。曰く「鉄腕アトムです」。腕がしなやかに動くまでの苦闘は語らない。休みない舞台がつづき喉をいため、謡人結節(ようじんけっせつ)で合計四回手術している。四回目は、全身麻酔で、長時間に及ぶ大手術がされた。喉は治ったが、不整脈と貧血が重くなり入院し、次に胃がんで胃を切った。「まっすぐ死んでもいがんで死ぬかなぁ」と洒落を飛ばし周りの人の気分をほぐす。一昨年正月、家の中で歩いていて柱にぶつかった。新聞を開くと左側紙面がまったく見えない。脳梗塞の症状である。入院となる。ベッド生活で日に日に足の筋肉が衰えていくのがわかった。兄の新太郎さんも倒れ長の入院生活を余儀なくされていた。舞台に立ちたいだろう辛かろう、の兄への思いは菊生さん自身のものになってしまった。近く『羽衣』の舞台が予定されていた。出演のつもりである。「面を付けて、少し歩いてみては」と子息で能楽師の明生さんが思いやる。菊生さんは首を横に振った。面を付け歩いてみたとして、筋肉の弱りを実感するのみ。それを本番までひきずる日々を怖れる。ここはやはり、自分流であった。
当日、申し合わせもなしで、父君からゆずられ長年それのみ付けている『堰(せき)』という小面で揚幕を出る。いつもと変わらなかった。観客に媚びることなく偉ぶることない菊生さんの信念どおりの自然な姿で見事に舞い終えた。「ほんとうに病気だったの?」とワキ方の宝生閑さんがいった。面に守られた。菊生さんは思った。逆境を静かに踏みたたみ良い方向へと進んできた菊生さんの隠れた努力をいちばんに知るのがこの面だったのか。
兄新太郎さんは平成十一年に他界した。
父、兄の魂をつなぎ、菊生さんの穏やかな笑顔は子息や孫、弟子達に向けられていく。
インタビュー・文/ひらの りょうこ 撮影/八木 洋一
|
|