KENSYO>能狂言インタビュー バックナンバー
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KENSYO vol.97
小鼓方幸流
曽和博朗
HIROSHI SOWA
現役最高齢の人間国宝
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曽和 博朗(そわ ひろし)
小鼓方幸流。大正14年京都生。曽和脩吉の長男。祖父鼓堂、父および幸祥光に師事。10歳で「小鍛冶」にて初舞台。
18歳で「道成寺」を披く。平成10年、重要無形文化財保持者各個指定(人間国宝)に認定される。現在、現役最高齢の能楽師囃子方。
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幸流小鼓方曽和家の三代目として1925(大正14)年に生まれた博朗氏。4月27日で90歳をむかえたその日、『曽和博朗九〇歳お誕生日会』と題した公演が盛大に催された。6歳から小鼓をはじめて84年、卒寿をむかえても、いまなお現役で舞台を勤められる博朗氏をたずねて、京都のご自宅へ伺った。
お稽古を始めたのは6歳6月6日から、初舞台は10歳の時で『小鍛冶(こかじ)』の独調です。おじいさん(初代・鼓堂)と親父(二代目・脩吉)に稽古をつけてもらっていましたが、昭和17年におじいさんと親父が続けて亡くなったんです。虫の知らせだったのか、早くからたくさんの曲を教えてくれましてね。17歳で『石橋』を披いて、 帰ってきたら親父が亡くなりました。
それからすぐ、東京の幸祥光先生(小鼓方幸流十六世家元)のところへ行って内弟子になったんです。新井薬師のほうに親戚があったものですから、そこから通っていました。
―内弟子はどのくらいまで?
昭和17年6月から19年12月の2年半、軍隊に入営するまでです。
とにかく家元がおっしゃるには、お稽古ももちろん必要だけれども、やっぱり舞台そのものを勤めなくちゃいけない。ですから、おじいさんと親父が亡くなった後も、鼓を打ちに京都へ帰っていました。
―そのあと軍隊に…
無線通信兵になったわけですね。覚えなくちゃならない略数字が合計80あるわけです。ところが鼓符号は200ある。子ども時分から覚えることばかりやっていたから、すぐ覚えました。それで星一つ(二等兵)が二つ(一等兵)になり、三つ(上等兵)に…。終戦を中国の張家港でむかえ、大同で捕虜になった。
それから、僕の誕生日の4月27日に船で仙崎(山口県)へ着いた。京都に着いたのが偶然にも親父の命日の5月17日。
呼び寄せてくれたと思えるような結果になりましたね。食べるものもない、そういう時代ですから、戦友曰く、「曽和くん、鼓なんてやってる人いないで」と。しょうがないから通信でもやろうか、と帰ってきたわけです。京都へ戻って、5月21日は西本願寺で降誕会があって、子ども時分からおつきあいさせていただいた片山家や金剛家の楽屋に挨拶に行き、それから『猩々乱(しょうじょうみだれ)』をやりました。軍隊では鼓の「つ」の字もなかったのに、覚えてましたね。やはり父や家元やら、うんと仕込んでいただいたから、それが頭に入ってた。あの頃はテープはないから、打ったらすぐ頭に入れないとだめなんです。この頃の若い人の覚え方とは違う。帰ってからゆっくりビデオ見ようか、ということはできないわけです。
―これまでたくさんの曲を勤めてこられた…
観世流でだいたい200番ありますが、まだ4、5番打ってない曲はあります、80年やってますけど。
金剛流や宝生流、喜多流、その流儀だけの曲もありますわね、それも入れたらもう少し打ってない曲はありますよ。
―復曲や新作もやっておられますが。
復曲はやりますけど、新作はあまり…。やっぱり道行の謡とか、たとえば九州から江戸へ行くのを5、6行でおさめる。ああいう綺麗な文章は、この頃の新作ではないですね…。
「道行」は字のごとく「道を行く」ことで、転じて「旅をする」という意味をもつ。舞台に登場した人物は、地名や風景などを並べた文を謡うことにより、旅の目的地に到着したという空間移動を舞台上で実現させる。綴られた詞章の美しさは、日本文学の紀行文(道行文)の伝統によるものといわれ、観客はその旅路を想像し、物語の世界へと誘われていく。
一人だけ良くてもだめで、全部が揃わないといけない。もちろんシテ方、地謡がしっかり謡ってくれないと、われわれは打てませんわ。
同い年で友達だったシテ方の観世寿夫さんは、幸流家元に鼓を習っていて、それでいうと兄弟弟子にあたります。謡だけじゃなく、囃子も本当によく知っている人でしたから、こっちは負けないようにやらなくちゃ、と励みになったかもわかりませんね。関西で相手もよくしましたし、心やすくおしゃべりしました。「曽和くん、こう打つからこう謡うわ」「今日のポ、よかったな」「もうちょっとゆっくり打ってほしかったな」とかね。そういう細かいところまで話をしていました。
粟谷菊生氏の著作(※1)の中に、『玉葛(たまかづら)』の〈一調一声※2〉を博朗氏と勤めた際のエピソードが記されている。
緊張感に満ちた舞台は一対一の真剣勝負と表され、博朗氏も当時の競演をよく覚えていると言う。
いまから17年ほど前、ちょうど人間国宝になった時です(1998年)。
菊生さんは私より3つ年上ですけれども、相手から受ける「感じ」があるわけ。申し合わせをしても、本番はそれとは違うことがあります。速さ、呼吸がある。どうくる?じゃあ一発こうやってやろうか、とかね。それがまた面白いところなんですよ。
―鼓の魅力とは?
お聞きになったとおりの「ポン」という調子です(笑)。鼓ってね、「音を出すのは右手、鳴らすのは左」。もちろん右手も強弱ありますが、左手の締め具合。鳴り物というには、鳴らないといけないです。胴の蒔絵も「実(み)」(実が成る)や「神鳴」みたいなのも多いですね。いつもいい音でないといかん。やっぱり、『羽衣(はごろも)』らしい調子とか、『高砂(たかさご)』らしい調子とか、そういうのが出てこないとだめですね。
稽古はもちろんしなくちゃいけませんが、第一、好きでないといけませんよね、鼓方でもシテ方でも、その道ならと思えば。もちろん「好きこそ物の上手なれ」ということあるでしょ。先日の卒寿の会で、『道成寺(どうじょうじ)』を披いた孫の伊喜夫。これも好きでね(笑)。初演は無事に勤めることができて「上等」。この間は無事に鐘も釣れたし、他も悪いところはなかった。無事に済んで上等です。
―「卒寿の会」で先生ご自身は?
初舞台と同じ『小鍛冶(こかじ)』をどうにか打ちましたね(笑)。地謡はほとんどが鼓の教え子 。やはり教え子が地謡ですと嬉しいですよ。親子二代、三代にまで教え子は広がっています。
―次の目標は?
毎月、舞台への出勤があります。それにむけて元気にしていないといかん。50歳の時に大病もしましたけど、「曽和先生、病抜けされましたね」と皆に言われます。美味しく食事もお酒もいただいて、ハイオクのガソリンをいれないと(笑)。そしてお稽古をつける。人様に教えるわけだから、自分が覚えてないと。そういうことが十分勉強になるわけ。素人の方は、間違ったら「惜しかったね」というのはある。こちらはプロです。「惜しかった」ということはないのです。
昭和28年以降、終始着物で過ごしておられるという。その理由を博朗氏は「洋服は軍隊を思い出すから」と明るく答えてくださった。笑顔にまぎれた経験と思いは、現代の私たちの想像をはるかに超えるものかもしれない。鼓とともに歩んでこられた人生。現役最高齢の能楽師として、さらなる歴史を刻まれることを願う。
※1『粟谷菊生能語り』ペリカン社、2007年p.80〜81
※2〈一調一声〉とは、能の一部分を打楽器奏者一人に謡い手一人が演奏するスタイルであり、常とは異なる特別のリズムを奏するため、謡い手、囃子方ともに優れた力量が求められる。
インタビュー・文/北見 真智子 撮影/八木 洋一
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