KENSYO>歌舞伎・文楽インタビュー バックナンバー
|
|
KENSYO vol.39
三味線 鶴澤 寛治
Kanji Tsuruzawa
|
| |
|
鶴澤 寛治(つるざわ かんじ)
七代。1928年9月27日、生まれ。1943年15才、父の三代鶴澤寛治郎(後の六代鶴澤寛治)を師匠として鶴澤寛子を名のる。10月、四つ橋・文楽座にて「艶容女舞衣・酒屋」の筝にて初舞台。1956年1月、道頓堀・文楽座にて八代竹澤團六を襲名。1994年4月、「三味線格」になる。1997年6月、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。1999年11月、勲四等旭日小授章。
|
| | |
人形浄瑠璃文楽の三味線方で人間国宝。時代物、世話物、景事すべてをこなす。艶のある美しい音色で品がいいと、すでに評価を得ている名手が、七代目鶴澤寛治を襲名する。文楽では「大名跡」で、二十六年ぶりの復活を喜ぶ声も多い。来年一月の初春公演「増補忠臣蔵・本蔵下屋敷の段」で襲名披露する。
実父で師匠だった先代も人間国宝で、昭和期を代表する三味線弾きと名高い人だった。
「代々の師匠は名人ばかりで大曲を作曲された。私では無理だと思っていました」
ひいき筋から、あなたも人間国宝で勲章ももらったんだから大きな顔をして継ぎなはれ、と勧められていた。そんな折の昨年暮れ、胃がんの告知を受けた。
「襲名はまだ早いと怒られたかと思いました。だけど、元気になり、襲名を許してもらえたんだと思いました」
というのも、医師から「奇跡としかいいようがない」と言われたからだ。検査を仕事の都合で予定より早く受けたのがいい結果になった。
「親、師匠、神様の恩を感じました。守って頂き、許して頂いた」と、晴れ晴れした表情で話した。色紙のサインは、まず「恩」と書く。初心忘れるべからず、である。
手術後の回復力もすごい。抜糸をする前から三味線を弾き、病院の五階から一階まで階段を下りたり上がったり、運動も始めた。
「お腹に棒をさされたみたいに痛かったですが、ちょっとでも早く治りたかった」と事もなげに言うが、意気込みがうかがわれた。
兄が急死して「ピンチヒッター」で、本格的に文楽の世界に入った。鶴澤寛子の名前で初舞台を踏んだ。第二次世界大戦中のことで、警察から出頭命令がきた。
「芸人になるなんて女々しいと思われていた時代ですからね」
しかし、励ましてくれた人もいた。一九四五年の大阪大空襲の翌日、慰問に行った兵庫県伊丹市に駐在していた航空隊の隊長から「文楽という日本の文化を後世に伝えないといけない。胸を張って頑張りなさい」という心強い言葉を聞き、感動した。
その後、徴用を前に、終戦になったものの公演数は少なくなり、客よりも出演者の方が多い時もあった。
十七、八歳の遊び盛り。踊りの会などでアルバイトをして稼いでいた。ある日、父から「お前の三味線は、銭くれ、銭くれと言うてる。お金は後からついてくるもんや。金が先にくるから芸が卑しくなる」と叱られた。
「温泉で風呂に入った時に、その人が社長さんだとか雰囲気で分かるというんですね。身に何もつけていなくても心の修行をしていれば、その人の生き様が三味線に出ると言われました。三味線が物言うか、と反発したこともありましたけどね。その通りでした」
けいこも厳しかった。説明もなく「あかん」の一言で、一つの音を出すのに三日も四日もかかるのはざらだった。
「仮名手本忠臣蔵」の九段目。雪の積もる山科の家へ、大星由良助が帰って来る場面。弾き出しの「チンテンチンテン」が、なかなかうまく弾けなかった。景色が浮かばなかったのだ。
後日、北海道の雪深い旭川での巡業でヒントをつかんだ。どす黒い雲が空を覆い、雪が降っていた。前から黒いものが飛んで来るのが見えた。犬だった。その時、思わず「チーンテン」と口三味線を口ずさんでいた。
雪の降る音、ツララ、雨だれ、風の強弱、自然の音をはじめ、登場人物の心情などを音で描写する。「弾く人間の思い、つまり“腹”をやかましく言いました」と振り返った。
文楽の三味線は伴奏ではない。太夫の語り、人形の動きと一体となって舞台を作り出す。
「雪の手(弾き方)とか決まっていますが、今一度、物語るような三味線が弾きたい」
という念願を新たにしている。その一方で、現状への苦言もある。
「テープで覚える人が多くなった。覚えが早くなって、達者に弾く方もおられましょうが、どういう気持ちで弾いているのか。津軽も清元、長唄も同じように思っておられる方が多くなった。義太夫の三味線は撥に厚みがあり重いので打つこと、弾くこと、弾き分けをする。それが全部たたきに変わりつつある。手が回ることが主流で、音の色合いが二の次になっている。改めて義太夫は弾くという事を伝えておきたい」
「テープは確認のためのもの。水に浮かした氷と同じで、師匠にけいこをつけてもらうことで、氷の下の中身が分かる。上辺だけ分かっても神髄は極められない。自分で会得していかないと」と芸道の奥深さを語る。
披露公演の「本蔵下屋敷の段」は、「忠臣蔵」の「山科閑居の段」で、由良助に本音を語らせる加古川本蔵が、主従の別れをして山科へ向かうまでを描く。敵方の暗躍や琴の演奏など見所の多い演目だ。
父のもとで一緒に修業して「芸風も一番近い」竹本伊達大夫さんとコンビを組む。琴の演奏で、孫の鶴澤寛太郎さんが初舞台を踏むのも話題だ。
インタビュー・文/前田 みつ恵 撮影/八木 洋一
●ページTOPへ
●HOME
| |