KENSYO>歌舞伎・文楽インタビュー バックナンバー
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KENSYO vol.50
鶴澤 清二郎
Seijiro Tsuruzawa
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鶴澤 清二郎(つるざわ せいじろう)
1965年1月15日、大阪に生まれる。1976年、十世竹澤弥七に入門、文楽協会研究生となり、祖父鶴澤藤蔵の前名清二郎を名のる。1978年、現鶴澤清治の門下となり、1983年7月、大阪朝日座『鳴響安宅新関』「勧進帳」のツレで初舞台。1996年度大阪舞台芸術奨励賞、2002年度大阪文化祭奨励賞などを受賞。
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情景を音色で弾き分ける文楽三味線。語りの太夫と三味線は、ピッチャーとキャッチャーにも例えられ、「女房みたいなもの」とも言われる。
文楽の世界に入って二十七年。「ますます難しさを実感している」と言う。
父、九代目竹本綱大夫の三味線を引くようになったのは七年前。三十一歳だった。「まだ早いのでは」と不安もあったが、父のもと修業を始めた。
文楽は伝統的に、太夫が「こいつ弾けるな」と思う若い三味線弾きを引き上げてきた歴史がある。実力主義の世界ということもあるが、そうやって先輩たちが培ってきた義太夫節の型や風情などを後輩に伝承してきた。
「ようやく、学生さん向けの鑑賞教室の合奏で立三味線(リーダー)に座るようになったころでした。父は切場(重要な場面)語りでしたから僕にとっては新しい曲ばかりで覚えるのに必死でした。公演初日という締め切りを気にする毎日で、それは、これからもそうですが」と苦笑いする。
綱大夫さんも初役だった時代物「嬢景清八嶋日記」は、けいこも半月がかりと通常より、ほぼ倍の時間をかけた。
「この曲は普通にやっても七十分かかる。けいこだと二時間。それを一日に二回したこともあります」と、生半可ではない。
綱大夫は近松門左衛門の世話物も得意とし、時代物、世話物の両方の大曲を弾いている。
「時代物は結構型が決まっていてかっちり曲が出来上がっている。だけど、世話物は風情ですから、遊郭の雰囲気を出せとか、わびさびの叙情的なものを求められる。なかなかそういう音は出せない。豪快さとかは若さに任せて弾いたこともありますけどね」
近松物が続いて、たまに時代物が入ると「弾くというよりたたくという感じのところが多い。使っていない筋を酷使するから、腱鞘炎になったこともある」。バチを固定する右手の小指の付け根に大きなたこが出来ている。糸を押さえる左手の指先もたこが出来、爪の真ん中は割れている。「糸道と言って、これがないと三味線の音を捕まえられない」
友だちと野球やサッカーをする普通の少年だった。「親も別に文楽の世界に入れるつもりはなかったらしい」が、父親が俳優の大川橋蔵さんに「息子さんが一人いるんだったら、文楽の世界に導いてあげたらいい。年をとってから寂しくないですよ」といわれたのが発端で「一回やってみるか」となった。
小学三年生のころ楽屋へ連れて行かれたが本人は「客席で寝ていた」と全く脈なしだった。が、祖父は文楽三味線の名手だった鶴澤藤蔵(故人)で、母も小唄の先生という環境。
「祖父は僕が生まれた時に亡くなっていますので、演奏を生で聴いていないんですが、テープに残された音を聴いて感動しました」と、三味線弾きの道を選んだ。
母に小唄や地歌のてほどきを受け、十一歳で鶴澤弥七さんに入門。祖父の前名の清二郎を名乗り、師匠亡き後、鶴澤清治門下に。
「おじいさんが出していたような音を出したい。ざくっとした感じで、テンという一音でも残響がしばらく残り、裏側へ突き抜けた音というのか、どしっとした義太夫らしい音でね。そういう音の幅が出せるようになりたい。いつ出せるようになるのか、三味線の皮の張り方も今とは違うのかもしれない」と言い、「もっと職人さんとじかに合って相談していきたい」とも。
十月は、京都の祇園甲部歌舞練場で開く「綱大夫の会」がある。昨年に続き、今年十歳になる自身の長男も出演。「恋女房染分手綱・道中双六」の三吉役を語る予定とか。
「出るのは嫌やとは言いませんが、おじいちゃん孝行の一環やと思ってるんじゃないですか。僕はやりたかったらやればいいし、嫌なら別の道に進めばいいと思っている」と本人次第。
「同じ作品でも体調とか精神状態で変化する。自分はうまくいかなかったとへこんでいても、回りからみていたら、いい場合もある」。正解がないだけに、好きか嫌いかも含め覚悟がないと続かない世界だ。試行錯誤を重ねている姿に期待がよせられている。
インタビュー・文/前田 みつ恵 撮影/高野 晃輔
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