KENSYO>歌舞伎・文楽インタビュー バックナンバー
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KENSYO vol.52
人形遣い 吉田 玉女
Tamame Yoshida
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吉田 玉女(よしだ たまめ)
1953年10月6日大阪に生まれる。1968年現吉田玉男に入門し、玉女と名乗る。翌年4月、大阪朝日座で初舞台。若手のホープとして活躍中。1992年国立劇場文楽賞奨励賞、1993年大阪府民劇場奨励賞、1994年関西芸術大賞ゴールデン賞など多数受賞。
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「主遣い、左遣い、足遣いの三人で人形を遣う人形浄瑠璃文楽は、日本に一つ、世界に一つしかない。世界無形遺産に選定され、世界に認められたようで、すごくうれしいですね。それだけに、(竹本)住大夫さんもおっしゃっていましたけど演じる方がもっと一生懸命頑張らないとだめだし、それが、お客さんにも喜んでもらえることになると思う」
ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」に選定された文楽について、人形遣いの吉田玉女さんは、こう言い表した。
おかげで、一月の大阪公演は久々の大入り袋、二月の東京公演のチケットは早々に売り切れるなどの成果があった。
そして二月末、パリのユネスコ本部で行われた文化庁主催の文楽のレクチャーデモンストレーションに参加。四月は本拠地、大阪・日本橋の国立文楽劇場で、開場二十周年記念の文楽通し公演「義経千本桜」に出演する。
「今までと違う空気を感じるし、それがいい力になっている」と、張り切っている。
「義経千本桜」では、師匠で人間国宝の吉田玉男さんと、同じ役を前半と後半で遣い分けるのだからなおさらだ。
第一部、源氏の総大将の兄、頼朝に疎まれて都落ちする主人公の源義経と対決する渡海屋銀平に身をやつした平知盛役だ。
この役は前と後で首が変わる。玉女さんは渡海屋銀平として出てくる前半を受け持つ。首は実のある役に使われる「検非違使」。
「きりっとした口元で、きびきび動く役に使われることが多い首です。義経を討ちにいく元気さや力強さを強調しないといけない」
知盛は、義経一行に立ち向かうが、ついに力尽きて、碇とともに海に身を投じる。「滅びの美学」を代表する役で、しどころも多い。
前半は、安徳天皇を奉じ、女官の典侍局を従えて、薙刀を一直線にふるって型を決めるなど「主と左、足の三人の息がぴったりあわないとできない」場面も多い。
その後、手負いとなった知盛から玉男師匠が遣う。文楽を代表する主役級の首「文七」に変わる。人形も大きくなる。
「文七は、どっしり構えて腹で遣う役が多い。検非違使は、僕らと同じぐらいの年代の前へ前へと突き進む役。師匠が知盛を初めて遣ったのは、僕が入門してからで、それ以来、本公演でほかの人が遣うのをみたことがない。ずーっと師匠が遣っている。玉男十種の中のさらに三つの中の一つが知盛だと思うんでね。やりたかった役の一つです」と、感慨はひとしおだ。
人形遣いの修業は「足十年左十年」と言われている。入門して一年目の夏の巡業で、近松門左衛門の世話物「曽根崎心中」の「生玉社前の段」で、玉男師匠が遣う徳兵衛の足をぶっつけ本番で担当した。この場面はそれほど動きがあるわけではないが、座っている場面で失敗した。
「足が開いてきて、横できれいに座っていた先輩の足遣いを見て『あんな風に座られへんか』と言われてね。本番が終わってから、先輩に教わった思い出があります。あのころは怒られてばっかりでしたが、今になると足の修業が一番大事だと分かる」
それから三十五年。「生玉社前の段」の徳兵衛の主遣いをするようになった。四月公演では、第二部の「椎の木の段」と「小金五討死の段」で、平家の公達維盛の家来、小金五役も遣う。
玉女という名前は「玉男は男だから女から早く男になるように」という思いを込めて名付けられたが、今や立派に、次代を担う立ち役としての期待を集めている。
インタビュー・文/前田 みつ恵 撮影/八木 洋一
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