KENSYO>歌舞伎・文楽インタビュー バックナンバー
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KENSYO vol.67
片岡 仁左衛門
KATAOKA NIZAEMON
東西の枠を越え
日本の歌舞伎を支える
巨星(スタァ)
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片岡仁左衛門(かたおか
にざえもん)
'44年3月14日、大阪府にて13代目片岡仁左衛門の三男として生まれる。長兄に5代目片岡我當、次兄に2代目片岡秀太郎。
'49年「夏祭浪花鑑」の市松役で初舞台。'64年「女殺油地獄」の与兵衛役で丸本世話狂言の初主演。以後、上方和事の伝承にも努める。'85年歌舞伎アメリカ公演に参加。'98年1月、15代目片岡仁左衛門襲名。'87年日本芸術院賞、'01年京都府文化賞功労賞、'06年紫綬褒章、芸術院会員、'07年大阪芸術賞ほか多数受賞。 |
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十五代目片岡仁左衛門家のお正月。
元旦は、白味噌仕立てに丸餅と八つ頭という大きなお芋が入る。人の上に立ち頭ともなる立派な人間になれとの祈りが込められる京風のお雑煮。二日目は大阪風。三日目は清汁に四角なお餅の東京風。切餅といわずめでたく囃子餅と呼ぶ。
「食べ上がりといいましてね、三が日に餅の数を増やしていくのですよ」
仁左衛門さんは今、元旦に一つ、それから二つ三つと重ねていくという。仁左衛門さんご自身の人生観そのもののような清廉な趣きが伝わってきた。
平成10年。片岡孝夫改メ十五代目片岡仁左衛門襲名から10年。
如何でしたかの問いに、
「あまり過去を振り返らないので、確かな答えは出てきませんね」。
昭和19年、大阪、松嶋屋十三代目片岡仁左衛門さんの三男として生まれた。松嶋屋は明暦2年(1656)に初代の名が見える名家である。敗戦の色濃い空襲の日々、ここで子どもらを死なせてはならぬとお母様は仁左衛門さんを背負い、子ども達の手を引き翌年京都へ。祖母も健在で、8人兄弟姉妹の大家族だった。大阪中座で『夏祭浪花鑑』の市松役で初舞台。5歳だった。鼓、三味線の稽古にも励んだ。歌舞伎役者としてやっていこうと決意をしたのは高校二年生。迷わなかったといえば嘘になる。得意な三味線でやっていこうか、と思ったこともある。上方歌舞伎が衰退の一途をたどる最中、暮らしの保障も不確かな時であった。折しも父君の十三代目仁左衛門さんが、上方歌舞伎の灯を消すまい、みんなと一緒に舞台をやりたいという信念で経済界、報道関係にも出掛けて訴え、駄目なら家屋敷も手放す決心で家族ぐるみの切符の販売、自主公演から始め、本公演へ繋ぐ活動をしておられた時である。仁左衛門さんの目は、当時若く「三階さん」といわれる端役であった坂東竹三郎さんや学士俳優だった嵐徳三郎さんといった人々が我が身を捨てても歌舞伎を守り立てようと奮闘する姿を見つめていた。若き心に、世界はみんなの力で成り立っているのだという思いが芽生えたのはこの時だったのだろうか。子どもの頃から設計図を引くのが得意だった仁左衛門さんは、平成9年に建設の大阪松竹座の三階さんの楽屋を広く窓も付けるよう提案している。人間らしく、争いごと少なく、自分の主張から始めるばかりでなく周りの人を慮り共にやっていくという姿勢は今も舞台でも日常でも変わらない。「信心深く穏やかな両親のお陰でしょうか」という。流れに逆らわず流れを活かし生きていく仁左衛門という名の大河である。
二十歳の時、世話物の名作『女殺油地獄』の与兵衛役で、しなやかな風姿と「悪」になっていく若者の心のアンビヴァレントな魅力で話題を呼んだ。昭和43年、兄君の片岡我當さん、秀太郎さんと古典歌舞伎の研究会「若松会」を結成、46年から7年間は、坂東玉三郎さんらと共に花形歌舞伎で活躍。自由な発想で『ハムレット』の演出も手がけた。
平成4年の京都南座の顔見世に出演中。肺膿腫と食道亀裂という軽からぬ病に倒れ入院となる。一日も早く舞台へ戻りたいという熱い気持ち、もし「死」が運命であればそれも致し方ないという諦念とが共存していた。療養に専念し病気回復。平成6年に舞台復帰がかなう。その年、父君がみまかる。父君在りし頃から襲名は示唆されていた。「まさか自分が」と悩みに悩んだが、兄君や周囲にも勧められまさしく人の心の流れの中で引き受けることになった。十四代目が故十三代目片岡我童さんに追贈され、十五代目仁左衛門が誕生。正月の歌舞伎座を皮切りに全国で襲名公演。20世紀最大の襲名と評された。21世紀になり、仁左衛門さんは今後の歌舞伎を様々考える。江戸、上方の違いは。仁左衛門さんはふたつを極端に二分することに疑問を呈する。歌舞伎は人から人へ伝えるもの。それを培ってきた先人の基本を守りつつ、今という時代の中で自分の役を掘り下げ、現在の自分を入れていく。歌舞伎がその時その時の現代劇であったように、現在そのひとときをお客様と共有したい。仁左衛門さんにとって歌舞伎は東西ではなく今という日を生きる日本そのものなのだ。
仁左衛門さんが過去を振り返るのは、気のすすまぬ役を頼まれ、どんな役でも働けるというだけで喜んでいた昔を思い返す時。思い上がりはいかん、と自らを諌める。
楽屋には、ご自身が設計した幅広く使い勝手の良い鏡台。その隣りに、子息の孝太郎さんの鏡台が並ぶ。それぞれの歌舞伎への思いを映して、灯が煌めいている。
インタビュー・文/ひらの りょうこ 撮影/柳 拓行
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