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KENSYO vol.83 三味線 鶴澤 藤蔵
TOZO TSURUSAWA
父がくれた言葉 「お前の三味線でなかったらよう語らん」 |
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| 鶴澤 藤蔵(つるさわ とうぞう)
1965年大阪生まれ。
1976年、十世竹澤弥七に入門、文楽協会研究生となり、清二郎を名乗る。
1978年、鶴澤清治の門下となり、1983年大阪朝日座『鳴響安宅新関』「勧進帳」のツレで初舞台。
1996年父竹本綱大夫(現源大夫)の相三味線となり、2011年に親子でそれぞれの祖父の名跡を襲名。二代目鶴澤藤蔵となる。
2006年国立劇場文楽賞文楽優秀賞、2011年伝統文化ポーラ賞奨励賞などを受賞。
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鶴澤藤蔵さん。人形浄瑠璃文楽、三味線。文字で見ているだけでも気品にあふれる藤の色、柔らかそうでいて芯がしっかりとしている感じだ。昨年春、鶴澤清二郎改メ二代目、鶴澤藤蔵を襲名した藤蔵さんにお会いした。お話を伺うにつれ、藤蔵さんご自身の力に満ちたすがすがしさが匂い立つようであった。浄瑠璃、竹本綱大夫改メ九代目竹本源大夫の父君と共に、稀な親子襲名だ、と話題になった。文楽はもともと世襲制ではなく、家柄や門閥にはこだわらない。ただ、藤蔵さんの生まれ育った家は、太夫と三味線の四代続く家である。代々傑出した才能を輩出してきた。
襲名以降、半年過ぎた感想を聞くと、
「とくに変わったということはありません」
淡々とした答えだった。言葉や譜、三味線などの道具という具体的なものとともに、自然な空気の如く皮膚から染み込んでいったものが藤蔵さんの体内に蓄えられているように感じられた。
初春公演の『壺坂観音霊験記・沢市内の段』。父君と共演である。襲名直前、三月に心臓の手術をした父君の体調が気になり、どう支えられるか藤蔵さんの課題である。
藤蔵さんは、昭和四十年、大阪に、竹本源大夫の長男として生まれた。姉と妹があり、男の子は一人だった。しかし、父君は「文楽をやるんやで」とは一度もいわなかった。あるきっかけで、父君は藤蔵さんに文楽への道を望むようになった。父君はいろいろな人と交流があり、中でも役者の故大川橋蔵さんとは親しかった。橋蔵さんは、
「息子さんをこの世界に引っ張りあげたらどうですか。のちのち、良い話し相手になりますよ」。
父君は、藤蔵さんの幼少の頃から、文楽のさまざまな舞台へつれていった。楽屋にも入った。人形遣いと人形、太夫、三味線、混然とした中に静かな活気があり、藤蔵さんは訳が分からないままにその雰囲気に馴染んでゆく。また、帰りに鮨屋で美味しい鮨を食べるのが何より楽しみで付いて行った。当時、外食やまして鮨屋などは贅沢なものであった。これが、藤蔵さんの文楽の道の始まりとなったようだ。そして父君に「太夫になるか」といわれ、藤蔵さんはとまどった。当時聞いた太夫(四代竹本津大夫)は体格も大きく、声も驚くほど大きく満身の汗で語る。その姿に藤蔵さんは、自分の体力には合わないなぁと考え、三味線弾きなら声も出さなくてもいいので、と答えた。はにかみやの少年だった。
お母様が小唄の師匠で地唄もよくしたので、お母様にも手ほどきを受け、小唄の会に出て『河太郎』をうたった。小学三年生の頃である。中学生になり父君の会に出演し『三番叟』を弾く。当時、鶴澤清治師匠は東京在住であったので、夏休みに集中稽古で上京し、会にも出た。
長じて三十一歳の時、父君の相三味線となる。その後十数年の歳月で、他人では分からない、いわなくても今、父はどう思っているのか、理解できるようになっていった。父君はあれこれ細かくいう人ではなく「自分で考えなさい」という姿勢。その距離感によって藤蔵さんの感性が研ぎすまされていったようだ。父君の芸の幅の大きさ、深さに完璧に寄り添う三味線はなかなか困難を極めた。稽古場と舞台では寸法が違う。太夫の語りは毎日、違う。三味線も粘るところ、走るところ、いろいろな技術を駆使するのだが、その一瞬、一瞬が浄瑠璃に合わないといけない。
「三味線はこういうもんや、いうのを親父は舞台で教えてくれました。昨日と違っていても、どんなことにも対応しないとあかんのです」
父君は今、七十九歳。手術の予後もあり、体力が以前より弱っている。浄瑠璃もその来し方を縁取(ふちど)るように変わってきている。
「助ける、いうたらおこがましいんですが」
父君の至芸がより確かに際立ち、お客様に伝わるよう、藤蔵さんは心を尽くす。三味線は太夫の女房役とよく言われるが、その一言では言い切れない信頼と情で結ばれた絆の息づかいが藤蔵さんにある。父君も「お前の三味線でなかったらよう語らん」といってくれるようになった。
そして、三味線もまた、物語を語り、笑い、怒り、泣き、歌う、その不思議が文楽の魅力である。最初の師、竹澤弥七さんの「意味のない撥はひと撥もない」の言葉が今、生きている。それをまっとうするためには、自分の世界だけでなく、他の分野、落語や芝居を見て、長唄など聴き、サムシングを吸収していく。
ここにコロムビアのCD『妹背山婦女庭訓・山の段』がある。三味線、初代鶴澤藤蔵。藤蔵さんの祖父である。藤蔵さん誕生の六日後に亡くなられた。 「音が違う。だーんと、ひと弾きの残響が続く」藤蔵さんは擦り切れるほど聴く。清治師匠も、「撥はこう、こんなふうに持って」その姿をやって見せて、君はDNAを引き継いでるから研究してこんな音を出してみろ、と励ます。
師匠は、若いうちは弾いて弾いて「喧しい」といわれるくらいに、もっとめいっぱい弾け。手加減も小細工もいらん、120パーセントで弾いてMAXを高めろ。それでも舞台で発揮できるのは80パーセント。師の教えは、藤蔵さんの人生観にもつながっているようだ。
インタビュー・文/ひらの りょうこ 撮影/八木 洋一
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